日盲社協通信 令和5年(2023年)12月号(通巻87号)

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日盲社協通信 令和5年(2023年)5月号(通巻86号)
編集人:福山博   発行人:長岡雄一
発行所:社会福祉法人 日本盲人社会福祉施設協議会(日盲社協)
National Council of the Agencies of the Welfare for the Blind (NCAWB)
http://www.ncawb.org/

もくじ

新しい年度を迎えて
日盲社協本部長・理事長 長岡 雄一

日盲社協が70周年を迎える年度になりました。新型コロナウィルスの感染拡大はまだ油断できない状況ではありますが、世の中はすっかり収束してしまったような感じです。施設勤務の方々は、逆に注意深く日常を過ごさなくてはならない毎日に直面させられているかもしれません。
さて、4月を迎え、私自身は東京視覚障害者生活支援センターの所長職を辞し、今回の『日盲社協通信』にも寄稿しております石川充英氏が所長に就任いたしました。ご本人のプロフィールや抱負については、石川氏本人の記事をご参照いただければと思います。
センターも今年40周年。委託から始まり指定管理を経て、現在、民間移譲されて7年目となっています。石川氏はこのほとんどに関わっており、私とは違った視点で運営をしてくれるものと期待しております。
また、センターはここ数年、建て替えの課題を抱えており、一時移転から新たな建物の完成には数年の時間が必要になります。利用者の訓練を継続し、なおかつサービスの質を落とさないことはかなり難しいことではあります。が、職員全員の力を合わせて挑戦し、乗り越えていただければと思いますし、しっかりと支援できるよう私自身も頑張らねばと思っております。
冒頭でも触れましたが、今年70周年を迎える日盲社協ですが、今後の課題は多くあると感じています。ここに一つひとつ列挙することはしませんが、70周年記念事業の根本的な考え方にもあるように、それは「温故知新」ということになると考えています。
折しも、3月に開催された日本ライトハウスの100周年記念大会では、岩橋武夫氏の業績が鮮明にされ、日盲社協の結成に関わってくださった先人の偉大さを改めて知らされたところですが、さらに、新たな歩みを進めなくてはならないことも痛感させられました。
そこで考えさせられたのは、私達にとって「新しい」とは一体どんなことなのか?最近話題となっている、チャットGPT。いくつか単語を示すと、文章を作ってくれるという、執筆に苦しむ私にとっては朗報以外の何物でもないのですが、それが「新しい」ものなのか。それが、この法人の日々の業務にとって、どんな利益をもたらしてくれるのか。多くのICT関連の機器はどうなのか? 私たちにはしっかりと見極める能力が求められているように思います。
新たな事業を展開することが、「新しい」と同義語だとは思いません。といって、現状維持も「新しい」という訳ではなさそうです。
実際、「新しい」職場へと移ってきた私自身が、日々、そんなことに頭を悩ませながら、本部長・理事長としての「新しい」日々を送っています。

7つの習慣から得たもの
常務理事 荒川 明宏

私は昨年(2022年)6月から一般社団法人7つの習慣アカデミー協会主催の「7つの習慣ファシリテーター実践会 認定養成講座」に妻の香織と2人で参加しました。
『7つの習慣』はスティーブン・R・コヴィーによって書かれ平成元年(1989年)に出版された世界的なベストセラー書籍です。日本語版は平成8年(1996年)に出版され、マネジメント部門のビジネス書として多くの企業が管理職研修に用いています。
7つの習慣とは、「依存」から「自立」、「相互依存」へと至る、成長の連続体を導くプロセスです。
私は7つの習慣の研修を受けたことにより、人生が劇的に変わりました。正しくは、考え方が変わったことにより、同じ人生を歩んでいても、全く別なものの見方が、少しずつできるようになりました。妻や社員と意見が異なっても、「シナジーのチャンス」と思えるようになり、毎日、幸福感を感じて生活できるようになりました。
7つの習慣では、まずは依存状態から抜け出し、主体的に行動できるようにめざします。このようなことを書くと誰もが「依存状態ではなく、自分は主体的に生きている」と思うでしょう。7つの習慣に書かれている主体性は、今の自分の環境すべてを受け入れるということから始まります。
「目が見えないから何かができない」ということではなく、「目が見えなくてもこのようなことができる」という、常に自分の変えられることにフォーカスして、どうにもならないことは、素直に受け入れます。私は時々「目が見えたらこんなことは自分ですぐできるのに」などと思ってしまうことがありますが、7つの習慣では、そのような考えは主体性があるとはいいません。
さらに、「刺激と反応の間にはスペースがあり、選択の自由がある」と書かれています。例えば私がレストランに入り、盲導犬での入店拒否を受けたとします。この時の刺激は「入店拒否」です。これに対して私はスペースを設けることにより、様々な反応を選択することができます。その場で店員に怒るということもできますし、盲導犬についての重要性を落ちついて説明することもできます。
この「7つの習慣」を視覚障害者が学ぶと、様々なシナジーが生まれるのではないかと私は思います。目が見えないとどうしても「見えない」という部分で他人に依存してしまいます。そのことは仕方がないことです。しかし、知らないうちに自分でできることまで依存することになり、主体性が失われていきます。そして、目が見えないのだから「国はこうすべき」など、周りを変えようとしてしまいます。
自分の幸福は自分の思いから作り出されるものです。みなさんもぜひ7つの習慣の書籍を読んでみてください。(株式会社ラビット代表取締役社長)

スポーツ界の監督から学ぶもの
常務理事 吉川 明

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で侍ジャパンが世界一になった。50年以上前の高校球児(選抜50回大会に参加)であった私も、日本の5戦ともテレビにくぎ付けとなった。ハイボール片手に、手に汗握り応援し、侍ジャパンの闘いに感動した。
侍ジャパンは、若い選手が自らの力を発揮して、自分のすべきことを成し遂げた。たしかに大谷選手は異次元の力で勝利に貢献したが、一人ひとりが世界レベルの侍選手としての力を出し切り、チームのため、日本のために全選手が犠牲心を持って献身的に戦った。この気持ちがペッパーミルパフォーマンスにつながり世界一となった。
選手を信じ、選手から世界レベルの力を引き出し、成長を促しながら「For the team」にまとめ上げたのは栗山英樹監督の手腕である。栗山監督がいう「監督の仕事」の実行が侍ジャパンを輝かせた。新しい名将の姿を見た思いがした。
2022年サッカーワールドカップで惜しくもベスト8を逃したものの、ドイツ・スペインを破り世界を驚かした森保一監督は、栗山監督にエールを送り「監督の仕事」を賞賛し、新生・森保ジャパンをスタートさせた。
また、2019年ラグビーワールドカップ日本開催で、日本はベスト8になった。日本代表が世界と戦える力をつけたのは、2012~2015年にヘッドコーチを務めたエディー・ジョーンズである。2015年ワールドカップで、優勝候補・南アフリカに逆転トライを決め、世界を驚かせた。「ワンチーム」という名言が生まれた。日本ラグビーフットボール協会のキャッチフレーズは「One for all, all for one」である。
これを日本人の森保監督、栗山監督が、日本人文化と融合させ、日本人チームを率いて世界で闘えるチームに育てた、私はそんな思いがする。
日本の学生駅伝界では、原晋監督が青山学院大学を駅伝常勝軍団に育て上げた。かつての常勝軍団・駒沢大学の鬼軍曹・大八木弘明監督は、自らの指導方法を変えて、指導29年目に悲願の大学3大駅伝(出雲・全日本・箱根)の三冠を達成した。
私は日本人監督に同じ姿を感じる。
翻って、視覚障害者支援の状況をみるとなんとも心もとなく見える。日盲社協は「For視覚障害者」の団体の成長を促し、その力を結集させて、障害者が自立できる社会づくりに寄与するのが仕事であろう。チームで言えば「監督」の役とも言える。とすると、今の日盲社協は「監督の仕事をしている」と胸を張れる状況ではないようだ。この学びを具体的な行動に結びつけたい。(日本盲導犬協会顧問)

誌上慶祝会
レハ・ヴィジョン(株)一二三吉勝社長の「厚生労働大臣表彰」を祝して
理事・盲人用具部会長 岡村 原正

石川県能美市に本社を置くレハ・ビジョン株式会社代表取締役社長の一二三社長は、平成14年(2002年)に同社を設立した時、社会に貢献することを第一の会社の目標に掲げ、まず石川県の主催するバリアフリー研究会に所属した。
障害を持つ人たちは何を必要としているのか? ひたすらヒアリングしたという。その時に視覚障害者の置かれている厳しい状況を知った。
「まず色を知ることの困難さから服の組み合わせが大変である。いったん服の組み合わせを決めるとそのパターンのまま保管している」との声を聞き、色彩の音声案内装置「カラートーク」を平成14年(2002年)に開発し販売を開始した。
他にも何か不便を感じていないかヒアリングをすると、「公共トイレ内の配置がわからず、触れたくない物にさわってしまう。また、同行者が異性の場合、中に入りづらい」との声を聞いた。
そのことから平成15年(2003年)よりトイレ内音声情報装置「ポッチシリーズ」を開発・販売する。今では実に多くの公共トイレに設置されている。
他にも厚労省との長い交渉の末、体を支えることも出来る「身体支持併用白杖」を補装具として認めてもらうことに成功した。
一二三社長は自分の主張を強く持ちながらその情熱で回りの人達を巻き込み進んでいく。そんな社長は、日盲社協盲人用具部会にとっても必要な人である。
本人は「自分は視覚障害者に今まで導かれただけ」と言う。そしてその信念のためにもレハ・ビジョンの名を広め、多くの商品を人々のネットワークを通じ販売しなければならない。
またそれが視覚障害者にとっても住みやすい社会になるはずであると話す。
もちろんそこには、適正利潤での商品販売をし、会社を長く存続させることが互いにとって大変必要なことであると言う。(〔株〕ジェイ・ティー・アール代表取締役)

点字毎日のバリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者内閣総理大臣表彰と坂田記念ジャーナリズム賞の受賞を祝う
東京ヘレン・ケラー協会理事長 奥村博史

昨年(2022年)5月に創刊100年を迎えた日本で唯一の週刊点字新聞『点字毎日』(毎日新聞社発行)が、同年暮れに内閣府のバリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者表彰の最高賞、内閣総理大臣表彰を受けました。
年が明けた春、今度は公益財団法人坂田記念ジャーナリズム振興財団が関西を拠点とした優れた報道活動を表彰する第30回坂田記念ジャーナリズム賞の第1部門(スクープ・企画報道)新聞の部に選ばれました。
ラジオ放送がなかった大正11年(1922年)に誕生した『点字毎日』。今回の企画報道「点字毎日が伝えてきたもの100年の歩み」は、視覚障害者の権利獲得の歴史などをたどった連載でした。まさにその歩みにふさわしいダブル受賞です。
毎日新聞社史『「毎日」の3世紀:新聞が見つめた激流130年』によると、創刊当時、英国に週刊点字新聞がありましたが、活字ニュースを点訳しただけで、『点字毎日』のように独立した編集室を持ち、広く盲界のニュースを自主取材したり論説を載せたりする点字新聞はありませんでした。
大正デモクラシーの時代。納税額で制限されていた選挙権が25歳以上のすべての男子に与えられた昭和3年(1928年)の第1回普通選挙で、世界初の点字投票が実施されました。この点字投票を求める運動を後押ししたのは『点字毎日』でした。
ヘレン・ケラー女史は来日3度目の昭和30年(1955年)6月、毎日新聞大阪本社にある『点字毎日』の編集長に「日本の盲人は『点字毎日』で自らの言論を得た」と語ったそうです。
創刊100年を刻んだ第5090号(2022年5月11日・17日合併号)の翌第5091号では、「東京ヘレン・ケラー協会が新事業」の見出しで、就労継続支援B型事業所「ヘレン・ケラー治療院 鍼灸・あん摩マッサージ指圧」の開設が紹介されました。
今後も障害者を取り巻く社会を映す多彩な報道を期待します。
ダブル受賞、まことにおめでとうございます。

70周年記念大会概要決まる― 4年ぶりの対面・懇親会開催 ―
日盲社協創立70周年記念大会実行委員長 吉川 明

3月15日理事会、3月27日評議員会で「創立70周年記念事業および第71回全国盲人福祉施設大会」が以下のとおり承認されました。

<開催日> 令和5年(2023年)11月9日(木)11時30分開会 18時閉会予定
<会 場> ホテルグランドヒル市ヶ谷 〒162-0845東京都新宿区市谷本村町4-1
<内容>
(1) 記念講演2題(演者選定中)
(2) 創立70周年記念式典
表彰状贈呈
来賓祝辞
70周年アピール文発表
(3) 記念祝賀会
<記念事業>次の3事業を行う
(1) 70周年記念誌の編纂(令和5年11月1日発行予定)
(2) 日盲社協紹介ビデオ制作
(3) 日盲社協ホームページのリニューアル(②③は令和6年3月末)
<参加費>大会5,000円、祝賀会10,000円(予定)

70周年記念大会は、二つの願いを込めて計画しました。
一つ目は、コロナ禍で3年連続の中止・オンライン開催を、何としてでも対面・懇親会開催を目指しました。東京での宿泊は大きな不安につながります。そこでコロナ第9波の懸念と視覚障害者と対面で業務遂行している会員施設のご懸念を考慮して、1泊2日の大会を日帰り開催としました。
11時半開会、18時懇親会終了は、全国の会員施設が日帰りできるギリギリのタイミングです。
二つ目は、大会記念事業をテコに「日盲社協と会員施設の未来につなげる」情報発信の強化です。
70周年記念誌は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」、昭和28年(1953年)日本赤十字社講堂で日盲社協誕生に立ち会い70年間共に歩いてこられた本間昭雄名誉会長に、70年間の歴史を俯瞰し総括してもらいます。各部会長にも各部会の歴史を学び直していただきます。加えて、60周年でも紹介した加盟施設のディレクトリーをコンパクトにまとめ掲載します。
日本視覚障害者職能開発センターのご支援による日盲社協紹介DVD作成を記念事業とさせていただきました。記念誌とDVDを単独事業にとどめず、データを最大限ホームページのリニューアルへとつなげます。
4年ぶりの対面開催・懇親会開催です。旧交を温め、新たな一歩を踏み出しましょう。
多くの加盟施設のご参加をお待ちしています。

わが施設の今 第11回 北海点字図書館
社会福祉法人ほくてん理事長 後藤健市

ほくてんは、昭和24年(1949年)に全盲であった後藤寅市が創設しました。
寅市は官立東京盲学校在籍時、図書室でたくさんの点字図書に出会い“くめども尽きない知識の泉”と表現するほどの感動を覚えました。そして同時に、当時の視覚障害者たちが、知識や情報を得ることの難しさを実感しました。
寅市は同校卒業後、地元・北海道の視覚障害者達とさまざまな情報や知識を共有すべく、大阪の日本ライトハウス、東京の日本点字図書館に次ぐ3番目の点字図書館としてほくてんを創設しました。
それから70年以上が経ち、情報を得ること自体の壁は格段に低くなりつつあります。そんな今、そしてこれからの社会にはより一層の視覚障害者と晴眼者の連携が重要になります。視覚障害に対する理解は、晴眼者が視覚以外の「4感」に対する理解によって深められるのではないかと考えています。

例えばアウトドアを通じ、視覚障害者と共に行動をしてみる。視覚に頼らないで何かを行う方法を知ることは「視覚」という一点への理解ではなく、いかに視覚以外の「4感」を駆使しているかを知ることができます。
そういった活動を通じ、視覚障害者への理解、また視覚以外の機能への意識を高めることを目指しています。

私たちはこれまでにも、グッドデザイン中小企業庁長官特別賞をいただいたカラー点字プレートや、視覚障害者の俳句短歌を掲載した書籍『まなざし』を発刊するなど、視覚障害者と社会のつながりを意識した活動をしてきました。
また体験施設として建設した星山荘は内部を真っ黒に塗装し、“視覚を使わないで建物内を進む”という「4感」体験を提供しました。
新型コロナウィルスの影響で“共に楽しむ”という機会が減り、同時に私たちは“共に楽しむこと”の大きな価値を知りました。
私たちは今、視覚以外の「4感」を共に楽しむことで、「視覚への理解」を高め、視覚障害者と健常者がこれからの社会へ向けて、より気軽に、かつしっかりと連携できる社会を目指し、日々の業務にあたっていきます。

特集 創立者岩橋武夫の世界とその時代― 日本ライトハウス100周年、日盲社協70周年 ―
日本社会事業大学学長室多心型福祉連携センター研究員/聖明福祉協会会長秘書
本間律子

1.はじめに

今年は、大正11年(1922年)に岩橋武夫が自宅で父親とともに点字出版を始めてから101年、昭和28年(1953年)に日本盲人社会福祉施設協議会を設立してから70年の節目に当たります。この記念すべき年に、博士課程で岩橋武夫を研究した者として、この一文を寄稿できる幸運を嬉しく思います。以下では、岩橋武夫が行ってきたこととその時代背景について、簡単かつ俯瞰的に述べさせていただきます。
なお、本記事では、歴史的事象を表す際に「盲人」という用語を使用します。

2.ライトハウスの設立

明治より前、盲人は鍼・灸・按摩などを営み、一定の経済的自立を得ていました。また当道座などの自助組織を作り、さらには「盲官」という官位とともに特権が与えられ、盲人たちは何とかその生活を守ってきました。
ところが明治に入りますと、明治4年(1871年)、盲官などの盲人の特権が廃止されました。そのため生活を支えてきた盲人の伝統的職業は晴眼者の進出により蚕食され、盲人は職業的自立の危機を迎えました。これに対し、盲人たちは按摩を盲人の専業にしようとする運動を起こしましたが、十分な成果は得られませんでした。明治から昭和初期にかけてのわが国の国家目標は、西欧列強に伍していくための国力の増強であり、自由競争社会の維持でした。そのため、職業選択の自由に制限を加える政策は、たとえ相手が盲人であり、かつ按摩業という小さな範囲であったとしても認められなかったのです。
昭和のはじめには、盲人が伝統的職業にのみ執着することに危機感を抱く者が現れました。その一人が岩橋武夫です。
武夫は、明治31年(1898年)、大阪に生まれました。両親は鉱山業を営み、家は裕福でした。何不自由なく育った武夫は、大正5年(1916年)、早稲田大学に進みました。ところが翌年の早春、人生を狂わす大きな試練が武夫を襲います。風邪がもとで網膜剥離を起こし、わずか1週間のうちに盲目となってしまったのです。失明した武夫は、一度は死を覚悟するものの、それを救ったのは母の愛でした。失明の年の大晦日、意を決して手に取った短刀を、母親がすんでのところで取り上げたのです。
その後武夫は、盲学校で点字を学び、また点字の書物を通じて世界の盲偉人を知ることで、再び学問の道を目指し始めました。そして関西学院に進み、さらには英国エジンバラ大学に留学しました。この英国留学で武夫が見出したもの、それは、「欧米で盲人問題の解決が進んだ背景には盲人のハンディキャップを補うことで自活可能なものとして肯定する「合理的保護」概念の発見がある」というものでした。そして、英国で調査した盲人のための社会事業を日本にもたらそうと日本の実情に即した「愛盲事業」を構想するに至りました。そして昭和3年(1928年)、自宅に「ライトハウス」の小さな看板を掛けました。なお武夫はこの年、母校関西学院の講師の職に就いています。
その後の武夫は、講演活動、著作活動を精力的に進めていきました。昭和9年(1934年)には、アメリカでも講演旅行を行い、その際、ニューヨークのヘレン・ケラー宅を訪れ、女史から日本訪問の約束を取り付けています。武夫は講演会で得た収入で資金のめどを得るとともに、昭和8年(1933年)には大阪盲人協会の会長に就任することで盲人たちの間で地位を得て、昭和10年(1935年)10月、大阪にライトハウスの建物を建築しました。これが日本ライトハウスの直接の前身です。同館は愛盲事業の実験場でした。以後、武夫はライトハウスを拠点に、生涯を掛けて盲人問題の解決に取り組んでいくのです。

3.早川分工場の取り組み

武夫は、生まれたばかりのライトハウスの経営に弾みをつけるとともに、盲人問題への世間の関心を高め、盲人の教育問題および社会問題解決の端緒を得ようと、昭和12年(1937年)、ヘレン・ケラーをわが国に招聘しました。ところが、平和の使者として来日した女史でしたが、皮肉にも同年7月に勃発した日中戦争のために帰国を余儀なくされ、残念ながらその成果は十分なものとはなりませんでした。
一方、武夫は「戦争は悲劇の父であるとともに、革新の母である」として、起きてしまった戦争を盲人問題解決の好機としてとらえようとしました。国の方では昭和13年(1938年)に厚生省が発足、さらに傷兵保護院、失明軍人寮および失明軍人教育所が設置されるなど戦時体制を整えていきました。武夫はそのような国の動きに呼応し、陸軍病院への慰問や職業指導、点字教授のための講師派遣などの事業を始めました。
やがてわが国は、太平洋戦争へと突入していきます。ライトハウスでは建物を改装し、また建物と設備を恩賜財団に寄付して名称も失明軍人会館に改め、シャープ株式会社創業者早川徳次の協力を得て、昭和18年(1943年)10月、失明軍人講習会を開きました。そして翌昭和19年(1944年)1月、同講習会を終了した6人の失明軍人からなる早川分工場を設立し、早川電機工業の指導のもと、航空無線機の部品の製造を始めました。これらの取り組みは、職業リハビリテーションの黎明ともいえるものでした。その後同工場は拡張され、武夫は関西学院の講師の職を辞して失明軍人会館の経営に専念することになりました。
昭和20年(1945年)になると本土空襲が激しくなり、会館も疎開を余儀なくされました。そして終戦となり、早川分工場は短い生涯を終えました。こうして武夫と早川がともに取り組んだ職業リハビリテーションの小さな灯は一旦消えてしまいましたが、そこで培われたものはやがてライトハウス金属工場やシャープ特選工業株式会社へと引き継がれ、障害者の職場として後々まで生き続けるのでした。

4.日本盲人会連合の設立過程

以上のように、盲人の職業的自立の危機を克服するため、武夫は大阪にライトハウスを設立し、ヘレン・ケラーを日本に招聘しました。これにより武夫は活動の基盤と知名度を得ることができました。
その後の武夫は、紀元二千六百年を契機に全日本盲人大会(以下「橿原大会」と称す)を企図し、昭和14年(1939年)、関西盲人事業連盟を発足させました。同連盟はやがて全日本盲人事業連盟となり、全国盲人協会連盟、全国盲学校同窓会連盟とともに橿原大会を成功させました。
武夫は同大会後、全日本愛盲連盟準備会を組織し、橿原大会の決議を実行に移そうとしました。そして、「愛盲報国号」という戦闘機の献納運動を成功させ、2年後に再び全国大会を開きました。この会議が準備会となり、昭和17年(1942年)11月、今関秀雄を会長とする、盲人初の本格的な全国組織である大日本盲人会が結成されました。しかし、終戦前後の混乱のため、同会は十分な機能を果たすことができませんでした。
戦後になると、鍼灸存廃問題が起きました。これは、盲人の多くが従事する鍼灸按摩マッサージ業を、彼らから完全に奪い去りかねないものでした。幸い、武夫を始めとする業界、盲学校、盲人たちによる全国的な運動により、この問題は解決しました。このとき盲人たちは、新たな全国組織の必要性を痛感しました。
また、戦時中に途絶えていた武夫とヘレン・ケラーの通信が戦後まもなく再会し、ケラーの再来日が決まりました。武夫はケラー来日を契機に、その受け入れ母胎として日本盲人会連合(以下「日盲連」と略記)の設立を図りました。GHQの強力な後ろ盾と、ライトハウス金属工場による経済的基盤を得、周到な準備がなされました。そして、昭和23年(1948年)8月、現在まで続く日盲連(現・日本視覚障害者団体連合)が設立され、武夫が初代会長に就任しました。

5.身体障害者福祉法成立に果たした役割

身体障害者を支援するための法律や制度は、戦前には、戦闘で負傷して障害状態となった傷痍軍人を対象としたものがありましたが、広く障害者全体をカバーするものはありませんでした。しかも終戦後には、GHQの指示により、この傷痍軍人を支援する制度すら奪われてしまいました。そのため生活に困窮した傷痍軍人の中には、電車の中や街頭で物乞いをする者まで出てきました。政府もこの状態を放置できず手を尽くそうとします。
しかし、非軍事化・民主化を占領政策の基礎に置くGHQを前に、政府が最初にとった傷痍者保護対策は、GHQが方針としていた無差別平等という枠内で、生活保護法を弾力運用するという限定的なものにならざるを得ませんでした。
その一方で、占領状態が続くにつれ、GHQの側でも、占領政策を成功させるためには傷痍軍人の問題を放置できないとの機運が出てきました。しかしそうは言っても、非軍事化・民主化という基本方針を取り下げることはできません。そのような行き詰まり状態の中で傷痍者対策を身体障害者福祉法(以下「身障法」と略記)へと発展させるためには、戦争を連想させにくい対象者が必要でした。そこに登場したのが盲人でした。
ここまで述べてきたように、近代を通じて職業的自立の危機に苛まれてきた盲人たちは、戦前から盲人のための法律制定を求める運動、愛盲事業や職業リハビリテーションの実践、全国組織の結成などに取り組んできました。戦後になると、ヘレン・ケラーを招聘し、その受け入れ母胎として日盲連が結成されました。このように盲人たちの間では、歴史・実践・組織の面で、自分たちのための法律を受け入れて運用・発展させていく土壌が整っていました。
日盲連を結成した武夫率いる盲人たちは、昭和23年(1948年)のヘレン・ケラー・キャンペーンを通じて、盲人福祉法の実現を世間に訴えていきました。政府およびGHQも、これら盲人たちの動きに乗っかる形で盲人を傷痍者対策の中心に据え、ヘレン・ケラー・キャンペーンを演出し、身障法の実現へと歩みを進めていきました。同年12月には、法案の検討委員会が結成されました。メンバーには、障害当事者として唯一、武夫をはじめとする盲人の代表が含まれていました。そしてケラー来日の翌年である昭和24年(1949年)12月、身障法は成立・公布されました。同法は盲人たちが目指していた盲人単独法ではありませんでしたが、盲人たちが盲人福祉法として求めていた政策の多くが同法に盛り込まれました。武夫と盲人たちは、「名よりも実を取る」形で自分たちの主張を取り下げ、障害者全体のための法律を受け入れたのです。

6.日盲社協の設立過程

身障法成立のめどが立った昭和24年(1949年)11月、武夫は米国調査に旅立ちました。これはヘレン・ケラーが相談役を務めるアメリカ盲人援護協会(AFB)から招聘されたものでした。武夫はその調査で、盲人の更生施策の中に米国流の合理性を背景とする現実解を見ました。武夫はこれを「愛盲リアリズム」と呼び、調査結果を身障法の適正な運用や日盲連の発展に活かそうとしました。
また同じ時期に発生した按摩単独法等の問題に対しても、盲人たちは按摩単独法反対という判断を示しました。按摩単独法は、戦前に盲人たちが長年にわたって行ってきた、按摩専業運動の実現に近づくもののようにも見えましたが、身障法が成立した後には、身障法の拡大にこそメリットがあると、盲人たちは合理的に判断したのでしょう。
一方、昭和26年(1951年)には社会福祉事業法が制定されました。これにより事業体が活動する上での法的基盤が整いましたので、武夫はこれに呼応し、米国の例も参考にして、それまで渾然一体の運用であった大阪盲人協会とライトハウスを分離し、武夫は大阪盲人協会の会長の座を退きました。
さらに昭和28年(1953年)、盲人の運動体である日盲連から事業者を分離し、事業者団体としての日本盲人社会福祉施設連絡協議会(以下「日盲社協」と略記)を設立し、武夫は初代委員長となりました。そして日盲社協と日盲連は、車の両輪のように相互に助け合いながら、盲人の福祉のために運営されることになりました。このようにして、武夫が指導する盲人たちは、組織として合理的判断ができるまでに成長し、組織体制も合理的に整備されたのです。
なお、日盲社協の現在の名称は、「日本盲人社会福祉施設協議会」でありますが、結成から1年後の資料ではすでに初期の頃の名称から「連絡」が取れています。

7.日本の盲人たちが世界へ飛躍していく過程

身障法を手にして以降、国内の体制整備と並行して武夫が取り組んだのが、わが国の盲人を世界につなげることでした。英国で目の当たりにした欧米の進んだ社会事業に触発されて、ライトハウスを設立した武夫にとって、それは最後の仕上げともいえる仕事でした。
昭和29年(1954年)8月、第1回世界盲人福祉会議(以下「パリ会議」と略記)がパリで開かれることになりました。武夫はこの会議に日本代表を派遣すべく、同年3月、世界盲人福祉協議会日本委員会を設立し委員長に就任しました。そして世界盲人福祉協議会(以下「世盲協」と略記)に加盟するとともに、パリ会議には喘息が悪化した武夫に代り、武夫の長男英行と鳥居篤治郎が派遣されました。なお世界盲人福祉協議会日本委員会は、後に日本盲人福祉委員会(以下「日盲委」と略記)に名前を変えて今日まで続いています。
パリ会議への日本代表の派遣は、翌年に計画していたアジア盲人福祉会議の準備の意味合いもありました。1回目のヘレン・ケラー来日では日中戦争の勃発により、2回目では秘書ポリーの体調不良により、ケラー女史のアジア歴訪は中断せざるを得ませんでした。武夫は、未完に終わったケラー女史の意思を引き継ぐとともに、太平洋戦争で失ったアジア諸国との友好を回復するため、昭和26年(1951年)頃よりアジア盲人福祉会議の構想を暖めていました。その後わが国は独立を回復し、世盲協よりの資金援助、厚生省の人的・財政的支援が得られることが決まり、アジア盲人福祉会議の開催は本決まりとなりました。
同年10月26日、更生課長松本征二が武夫宅を訪れ、アジア盲人福祉会議は厚生省が責任を持って開催する旨の報告をしました。武夫はそれに安心してか、10月28日、56年の生涯を閉じました。

8.最後に

ここまで、岩橋武夫が行ってきたこととその時代背景についてみてきました。こうしてごく簡単に武夫の足跡をたどってみましても、日盲連、日盲社協、日盲委という視覚障害者を代表する3つの団体いずれもが武夫が中心となって結成されたものであり、しかも身障法という障害者にとってなくてはならない法律制定にも関与するなど、改めて彼の偉大さを思い知らされます。
武夫は生前、「私の墓に苔むすころ、我々の敷いたレールの上を、我々が望んだ車が走ってくれるであろうことを確信している」と語っていたといいます。武夫が亡くなる1年前に発足した日盲社協の加盟団体の多くは、武夫が敷いたレールの上を途切れることなく今日まで走ってきたといっていいでしょう。今そのレール上を走っているものが、岩橋武夫が「望んだ車」であるかどうかはわかりませんが、そこによりよき車を走らせるのは、今日に生きる私たちの責務でありましょう。

参考文献
本間律子著『盲人の職業的自立への歩み岩橋武夫を中心に』関西学院大学出版会刊(2017)

ロービジョンの遠隔支援始まる
神戸iクリニック院長 仲泊 聡

ロービジョンケアは、この20年、眼科医療に浸透してきました。その方法は、光を活用するための視覚補助具の選定を行うことと、福祉・教育における視覚障害者支援サービスを紹介し、安心して暮らすための所作の習得や便利な情報に視覚障害者をつなげることでした。
しかし残念ながら、どこの眼科でもこのような対応ができるというわけではありません。その一方、単独でどこへでも行ける視覚障害者は多くなく、せっかくロービジョンケア可能な眼科を探し出しても、遠方となると、受診を躊躇せざるをえないというのが現状でしょう。
最近急速に広まってきた遠隔診療のサービスは、移動困難な視覚障害者にとって、とても便利なものです。そして、これまでにアプローチできなかったロービジョンケアのできる眼科への受診可能性が広がります。しかし、そのような眼科で遠隔診療を行っているところは、まだ数えるほどしかありません。
神戸iクリニックは令和4年(2022年)8月に開設され、令和5年(2023年)1月より高橋政代医師による「網膜再生医療相談」と、仲泊による「ロービジョン相談」の遠隔診療を始めました。遠隔診療では、実際の目の診察や視力・視野の通常検査は困難です。しかしながら、ロービジョンケアで提供すべきものは「情報」であり、それは言葉で伝えられるものがほとんどなのです。だから、ロービジョンケアにとって、遠隔診療は極めて相性の良いシステムなのです。
当院は、クレジットカード払いを含むこの通信サービスが利用可能な方を対象としていますが、このたび、日盲社協のご協力により、当院の通信サービスへのアクセスにご支援をいただく運びとなりました。心より御礼申し上げます。
これにより、第三者である福祉施設等の協力を得て受診するという新しい形態で、どなたでも受診が可能となりました。
受診についての詳細は、当院ホームページ(https://www.kobe-iclinic.com)をご参照ください。また、日盲社協の当院アクセス支援につきましては、本部事務局までお問い合わせください。本システムが、一人でも多くの視覚障害でお困りの方の支えになることを祈念しております。

<日盲社協事務局より>
日盲社協関係者の受診につきましては、以下のE-mailアドレスにご一報をお願いいたします。折り返し、受診申し込みの際の注意事項等をお知らせいたします。なお、日盲社協の予算上、日盲社協関係者の受診への援助は年間20回ほどを想定しておりますことをご了承ください。
連絡先E-mailアドレス:nichimou.rijichou@abelia.ocn.ne.jp

新たな出発
東京視覚障害者生活支援センター所長 石川 充英

このたび長岡所長の後任として東京視覚障害者生活支援センター(以下、センター)の所長の大任を拝しました。
私が入職した昭和61年(1986年)に、AOK点字ワープロがセンターに導入されました。「ビスケットを抜いてから電源を切ってください」。 ビスケットが5インチのディスケット(フロッピーディスク)であることがわかり、その場にいた職員と大笑いしたことを思い出します。ワープロ訓練からパソコンの訓練担当へと繋がりました。
また、平成4年(1992年)には日本ライトハウスの歩行指導者養成を受講し歩行訓練も担当。さらに相談業務も担当するようになりました。平成22年(2010年)には、新規事業である就労移行支援の課長に就任。教材学習と個別指導のハイブリットの訓練方式、就職面接試験への同行同席など、就労移行支援プログラムの体系的な基盤を構築しました。また、臨床現場から、毎年欠かすことなく研究発表をしてまいりました。さらに視覚障害リハビリテーション協会の監事、アビリンピック大会パソコン操作の主査も務めております。
センターの所長としての重責を担う新たな出発に際し、利用者のニーズや社会の要請に応えながら訓練等に携わらせていただきましたことに深謝すると共に、今後も時代や利用者のニーズに対応していく必要性を実感しており、今まで培ってきた臨床の現場力を活かしながら施設運営をおこなっていきたいと考えております。
さて、本年はセンター設立40周年を迎えるとともに、2つの大きな変革期を迎える新たな出発の年でもあります。
一つ目は、建て替えです。移転のための引越、移転先での施設運営、新施設での訓練開始という変革期を迎えます。この変革期における課題は、日常業務と利用者への影響を最小限にとどめること、将来を見据えた建物を設計・建築することです。
二つ目は、デジタル社会の進展です。視覚障害者の日常生活、職場生活におけるデジタル化という変革期を迎えています。この変革期における課題は、スマートフォンの急速な進展に備えて指導できる支援員を養成すること、従来の訓練の枠にとらわれないスマートフォンを中核とした訓練プログラムを構築すること、デジタル難民をつくらないこと、事業所間で情報交換することです。
これらの変革期と課題を乗り切るためには、職員の力を結集すること、関係機関との連携の構築に努めること、創造力と想像力を働かせることが重要であると考えます。
長岡本部長・理事長が所長として築き上げたセンターへの信用を継承・向上させ、また直面する変革期と課題を乗り越えるべく、センターの運営に取り組む所存です。皆さまのご指導とご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

令和4年度情報化対応支援者研修会(相談支援コース・基礎)
堺市立健康福祉プラザ視覚・聴覚障害センター 原田敦史

日盲社協情報サービス部会(岡本博美部会長)は、年に一度、初心者または基礎を学びなおしたい方向けに「相談支援コース・基礎」研修会を開催している。
開催については、今年度も感染状況に関わらず、当初からオンラインでの開催を予定していた。全国各地の参加者から「可能であればオンラインを継続をしてほしい」という声が多かったためである。対面での良さももちろんあるが、全体を通すとオンラインで実施する方が効率的でもある。
今年度は、令和4年(2022年)11月10日(木)・11日(金)、令和4年度情報化対応支援者研修会「相談支援コース・基礎」のタイトルで、Zoomによるオンライン研修会として開催した。

第1日目(11月10日)
講義1は、仲泊聡(ネクストビジョン)による「視覚障害と眼疾患(最新の研究、治療)・身体障害者手帳について」
講義2は、堀内恭子(日本ライトハウス)による「視覚障害リハビリテーションとは視覚障害者リハビリテーションの歴史と必要性」
講義3は、原田美貴(日本ライトハウス情報文化センター)による「視覚障害者が利用できるサービス補装具・日常生活用具の申請、その他のグッズ」
講義4は、住吉葉月(神戸アイライト協会)による「視覚障害者によくある困りごととその解決法見え方・疾患での異なる問題点」
第2日目(11月11日)
講義5は、田中桂子(神戸アイセンター病院)による「相談の基本技術インテークの重要性、傾聴・時間管理、電話での相談」
講義6は、原田敦史(筆者)による「ワークショップ」
講義7は、原田敦史(筆者)による「理解度確認」

本研修会は定着したと思われるが、参加者の中には2年越しでやっと参加できたという方もいて、募集開始をして3日後には定員に達するという速さであった。
Zoomでの研修会は年々スムーズになっており、講師・参加者ともオンラインに慣れている様子がうかがえた。業界でのこのプログラムへのニーズを考えると、次年度はもう少し人数を増やすことも検討していく必要があると思われる。

情報化対応支援者研修会(第13回情報機器コース)
日本ライトハウス情報文化センター 松本一寛

日盲社協情報サービス部会は、令和4年(2022年)11月17日と18日の2日間、Zoomを利用したWeb研修会を行った。標記研修会の受講者は32人(29団体)で、下記内容で実施した。

1日目(11月17日)
講義1は、松本一寛(筆者)による「視覚障害者理解と情報機器変遷」
講義2は、西田友和(ロゴス点字図書館)による「最新情報2022年版」
講義3は、金山佐保(山梨ライトハウス青い鳥成人寮)による「はじめてのiPhone」
講義4は、御園政光(視覚障害者総合支援センターちば)による「iPhoneアプリ活用法」
2日目(11月18日)
講義5は、阪井紀夫(徳島県立障がい者交流プラザ視聴覚障がい者支援センター)による「パソコンサポート基礎 ― iPhoneもいいけどパソコンもね」
講義6は、庄司健(島根ライトハウスライトハウスライブラリー)による「賢く楽しくパソコン活用」
講義7は、別府あかね(岡本石井病院眼科)と竹田幸代(日本ライトハウス情報文化センター)による「くらし彩るロービジョンICTケア入門」
講義8は、 山村友梨子(視覚障害者生活情報センターぎふ)を司会に「情報交換会」

3年続いたオンライン開催だった。講師、スタッフ陣の3/4が大阪の日本ライトハウスに集い、昨年目指した過去2回よりもスムーズな研修会を進行できた。
最後の情報交換会では、ブレイクアウトルームを活用し受講生5~6人で研修について話したあと、それぞれのグループの代表から発表してもらった。
今年度は今までよりも初心者を意識して講義を組んで実施した結果、研修会終了後のアンケートでは、講義内容について初心者にとってちょうど良いレベルとの声が多かった。
特にそれぞれの講師が話した「『何をしたいか』『どんなところに興味があるのか』を聞き取りICT訓練や情報提供をしていく」という点が印象に残った受講生が多かったようだ。しかし、情報交換会ではiPhoneの用語を初めて聞いたとの受講生もみられ、もっとテーマを絞ってほしいという意見もあった。
これまで、本研修会では視覚障害者情報機器全般を満遍なく取り入れた内容を意識して組み立てていた。
令和5年度は、よりテーマを絞ってiPhone利用支援集中講座のような内容を計画してみたいと考えている。

令和4年度点字指導員講習会
点字指導員研修委員会委員長 大澤剛

令和元年(2019年)に日盲社協情報サービス部会による点字指導員講習会を東京で行ってから、コロナ禍のなかで2年間開催できない状況が続いた。
しかし、令和4年度はなんとか開催したいと点字指導員研修委員会の委員で検討を重ね、オンライン形式による「指導員有資格者のための研修会」として開催した。
研修会は、令和4年(2022年)11月29日(火)にZoomによるオンライン形式で開催した。オンライン形式ということで、できる限り内容が長時間にならないよう、下記の内容で行った。

講義1「BESXの活用促進」
講師:石川龍海、塚越祐輔(視覚障害者総合支援センターちば)
点字出版所・図書館、点訳ボランティアにより点字文書を作成・編集するための点訳データ作成ソフトウェアとしての「点字編集システム」は、今やデファクトスタンダードといっていいだろう。このため視覚障害者は、点訳データを読むときのリーダーとしても活用している。
点字編集システムで作成した点字データ(BESデータ)は、拡張子がbesとなる。一方、点字編集システムに追加されている、「点字資料製作支援」機能を利用して作成したデータ(BESXデータ)は、拡張子がbesxとなる。ただし、「サピエ図書館」に登録する際は、BESXデータはBESに変換し、すべてBESデータで登録することになっている。「点字資料製作支援」機能(BESX)を使用するかどうかは、点字編集システムの使用開始時に選択でき、BESのメニューからも変更できる。
本講義はこのBESXの活用促進をテーマに行った。
講義2「音訳の処理事例から学ぶイラスト、写真などの点訳」
講師:熊谷成子氏(元日盲社協音訳指導員研修委員会委員長)
いずれの講義も、指導者に必要となる点訳ソフトを活用した校正方法や、視覚的に表現されている写真などをどのように点訳するかといった、指導者にタイムリーな内容を提供できたと思う。(三重県視覚障害者支援センター)

令和4年度音訳指導員養成講習会・第16回音訳指導員認定試験
音訳指導員研修委員会委員長 宮本千里

1.音訳指導員養成講習会報告
令和4年度から音訳指導員養成講習会を各ブロックで開催することになり、11~12月に「東北・新潟・北海道」、「関東」、「近畿」、「中国・四国」、「九州」の5ブロックで開催し、合計146人が修了した。
これに先立ち、今回講習会の開催を見送った「中部ブロック」の受講者数人も受け入れて「近畿ブロック」でモデル講習会が行われ、他ブロックの講習会担当者が真剣に見学していた。
講習会の内容は、日盲社協情報サービス部会の音訳指導員研修委員会と全視情協録音委員会による合同プロジェクト「音訳指導員養成プロジェクト」が作成した『音訳指導員養成講習会について』にあるカリキュラムに基づき、視覚障害者概論、ボランティア養成概論、音声表現技術の指導法、処理技術の指導法、調査技術の指導法、校正技術の指導法で組み立てられた。
講師は、各ブロックに所属する施設職員や指導を担っている音訳奉仕員などが務めた。視覚障害者概論とボランティア養成概論は、プロジェクトが作成した教材動画「視覚障害について」、「視覚障害者への情報提供と著作権法、郵便法」、「ボランティア養成概論」を取り入れたブロックもあった。
なおこの教材動画は、音訳指導員養成講習会を修了した者が他の講習会・研修会等で使用することが認められているので、ぜひご活用いただきたい。

2.第16回音訳指導員認定試験報告
令和5年(2023年)1月20日(金)、オンラインで第16回音訳指導員認定試験を実施した。
今年度から受験資格を、試験実施日までに各ブロックが開催した音訳指導員養成講習会を修了した各施設・団体の職員、または各施設・団体の推薦を得た者で、次の(1)または(2)に該当する者である。
(1) サピエにコンテンツ登録するために認定証が必要な施設・団体に所属する者
(2) 認定証を所持していないと音訳講習会等の講師ができない者
認定試験は択一・選択・記述式等で、各種音訳マニュアルやテキストを基に、音訳の基本的知識から各技術の指導に関する問題で行い、90人が受験し50人が合格した。(熊本県点字図書館)

令和4年度情報化対応支援者研修会(相談支援コース・応用)
東京ヘレン・ケラー協会点字図書館 小倉芳枝

日盲社協情報サービス部会は2月9日(木)・10日(金)、5回目となる標記研修会を開催した。Zoomを活用したオンラインでの実施で、北海道から沖縄まで21人の参加者があった。

1日目(2月9日)
講義1は、道面由利香(横浜訓盲院生活訓練センター)による「相談者が求めること ニーズの把握を事例報告から」
講義2は、白潟仁(システムギアビジョン)による「最新機器、最新情報提供(拡大機器を中心に)」
講義3は、清水智子(日本視覚障害者団体連合)による「相談者の身の守り方 セルフケアについて 支援者の健康管理」
講義4は、荒川和子(NPO法人目と心の健康相談室)による「目の不安とこころに寄り添う取り組み」
講義5は、原田敦史(堺市立健康福祉プラザ視覚・聴覚障害者センター)による「記録の取り方、まとめ方 基本情報の収集と記載方法」
2日目(2月10日)
講義6は、小倉芳枝(筆者)「演習1 聞き上手になるための実践演習」
講義7は、金井政紀(日本盲導犬協会)による「盲導犬について 申請方法、取得基準等について」
講義8は、中津大介(東京視覚障害者生活支援センター)による「演習2 実践演習ケースの情報をもとに演習を実施」
講義9は、研修会スタッフによる「理解度確認・意見交換・修了式」

まとめ
今回の参加者はほとんどが情報提供施設職員、他に機器販売店職員の方が数人という構成であった。
スタッフ・参加者ともオンラインでの研修に慣れてきたこともあり、Zoomの不具合等もなくスムーズに進行できた。
参加者からは「チャットや小グループでのディスカッションがとても有効と感じた」「ブレイクアウトルームでのグループワークは緊張したが、他施設の方と話すことができて良かった」という感想があった。
研修内容について、前回まで「目の不安とこころに寄り添う取り組み」「記録の取り方、まとめ方 基本情報の収集と記載方法」の内容を1つの講義の中で扱っていたが、今回はそれぞれ独立した講義とした。内容をより詳細に取り上げることができ、研修の流れとしても自然だったと思われる。現任職員の方々が視覚障害と支援方法について改めて学ぶことのできる研修は少なく、この研修は貴重な場だとの声をいただいている。今後も良い学びの場となるように工夫と研鑽を続けたい。

(追悼)日本点字普及協会理事長、日本点字委員会副会長藤野克巳さんの帰天
千葉県視覚障害者福祉協会 髙橋惠子

去る2月28日午後、昨年秋からご自宅で療養を続けておられた藤野克己さんが逝去されました。79歳でした。
心よりご冥福をお祈りいたします。
コロナ禍以来、お会いすることこそありませんでしたが、必要な助言はE-mailなどでいただいていましたので、訃報に接してもにわかには信じられませんでした。
お声をお聞きしたのは結局、昨年11月16日に開催された日本点字普及協会のZoomによる事務局会が最後になりました。
藤野さんは高校時代の奉仕活動で点字との出会いをされたことがきっかけとなり、その後一貫して点字や視覚障害者の世界に深くかかわってこられた方ですから、存在が大きかっただけに、関係者の喪失感も並大抵のものではありません。
私が初めて藤野さんのご指導を受けたのは、昭和56年(1981年)に開催された日盲社協主催第1回点字指導員資格認定講習会でした。
当時点字図書館部会(現・情報サービス部会)では、施設相互間のネットワーク構築に着手していました。貸出の面では国会図書館を介しての目録の交換や相互貸借についての取り決め、製作の面では均質な点訳・音訳資料を提供するための全国共通のテキスト発行でした。『点訳のてびき入門編』はこの取り組みの中で生まれたもので、編集作業において藤野さんは中心的な役割を担っておられました。
私が同書の編集に関わったのは平成3年(1991年)発行の第2版からですが、藤野さんが編集長を務められた平成14年(2002年)発行の第3版、そして平成31年(2019年)発行の第4版まで常にお近くで学ばせていただきました。
「決めるまでは大いに議論し、決めたらみんなで守りましょう」とおっしゃっていた藤野さんの姿勢は、私たちの指針として受け継がれています。
全視情協事務局長として「サピエ」の安定的な運営に尽力されたことなど功績を挙げればきりがありませんが、近年は、特定非営利活動法人日本点字普及協会の理事長として、凸面点字器の開発・普及、Lサイズ点字の普及、中途視覚障害者への点字学習指導法研修会の開催などで、点字の普及・啓発活動に精力的に取り組んで来られました。なかでも、凸面点字器の開発は長年の夢を実現されて、これからさらに普及活動に取り組もうと意欲をもっておられました。今後は藤野さんの思いを大切にしながら、活動の継続に微力を尽くしたいと思います。

日盲社協事務局だより

1.表彰者・受賞者情報

第72回障害者自立更生等厚生労働大臣表彰「身体障害者等社会参加促進功労者」をレハ・ビジョン株式会社代表取締役一二三吉勝氏が受賞された。
バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者内閣総理大臣表彰と、第30回坂田記念ジャーナリズム賞を毎日新聞社点字毎日が受賞した。

2.加盟施設変更情報

(1)施設長等変更(敬称略)
<自立支援施設部会>
東京視覚障害者生活支援センター
新所長 石川充英(令和5年4月1日付)

3.事務局からのお願い

(1)Zoomの貸出
ZoomミーティングとZoomウェビナーを貸し出しております。利用希望の会員施設は、使用希望日等を記載の上、下記事務局宛にE-mailでお申し込みください。
(2)ホームページの「部会別ページ」には、全会員施設の法人名、施設名、住所・電話番号・FAX番号・E-mailアドレス、およびホームページを持つ施設にはそのリンクを掲載しています。また、小誌では上記に加え、施設長の変更も紹介しております。交代人事がありましたら、事務局までお知らせください。
事務局(nichimou.su@feel.ocn.ne.jp

編集後記

本間律子氏には『盲人の職業的自立への歩み 岩橋武夫を中心に』と題する著書があり、さらに令和4年(2022年)2月17日には日本ライトハウスに招かれて、「2021年度職員全体会」で、「岩橋武夫が日本の障害者福祉の発展に果たした役割と今日に残した遺産」と題してオンラインによる講演もされているので、今や岩橋武夫研究の第一人者といって過言ではありません。
本年(2023年)3月3日に、メルパルクホール大阪で、日本ライトハウス「創業100周年記念式典・記念行事」が挙行され、本年11月9日には、日盲社協創立70周年を記念した第71回全国盲人福祉施設大会が開催されます。
日盲社協創立の中心メンバーであった日本ライトハウス(当時の名称は「社会福祉法人ライトハウス」)の創立者は、岩橋武夫先生です。また、日盲社協(当時の名称は「日本盲人社会福祉施設連絡協議会」)は昭和28年(1953年)9月29日、日本盲人会連合岩橋武夫会長の呼びかけに応えた視覚障害関係32施設の代表が東京の日本赤十字本社講堂に集い発足しました。
そこで本間氏に、本号の「特集」として、「創立者岩橋武夫の世界とその時代 ―日本ライトハウス100周年、日盲社協70周年」を寄稿していただきました。(福山博)

第15回 視覚障害者向け総合イベント
ふれてみよう! 日常サポートから最先端テクノロジーまで
サイトワールド2023

サイトワールドは、最先端の技術・機器、日常用品、および、ユニバーサルデザイン(UD)製品等の展示会、講演会、学会発表、フォーラム、体験会等が催される、世界でも例を見ない視覚障害者のための総合イベントです。来場者一人ひとりが主役です。
新型コロナウイルスの区分も変わり、4年ぶりに開催します。

日時:令和5年(2023年)11月1日(水・日本点字の日)、2日(木)、3日(日・文化の日)午前10時~午後5時(11月3日は午後4時まで)
会場:すみだ産業会館サンライズホール(JR・地下鉄半蔵門線 錦糸町駅前 丸井錦糸町店8・9階)東京都墨田区江東橋3-9-10 墨田区丸井共同開発ビル
主催:NPO法人サイトワールド 〒169-0075 東京都新宿区高田馬場1-29-7-401(株)ラビット内 TEL:03-5292-5644  FAX:03-5292-5645 E-mail:sightworld-bj@gmail.com

第71回全国盲人福祉施設大会は11月9日(木)開催!

日時:令和5年(2023年)11月9日(木)11時30分開会、18時閉会
会場:ホテルグランドヒル市ヶ谷 〒162-0845東京都新宿区市谷本村町4-1
TEL:03-3268-0111(代表)
交通:JR中央・総武線「市ヶ谷駅」徒歩3分、都営新宿線「市ヶ谷駅」4番出口より徒歩3分、東京メトロ有楽町線「市ヶ谷駅」7番出口より徒歩3分、東京メトロ南北線「市ヶ谷駅」7番出口より徒歩3分

本誌は、大阪府民共済生活協同組合の助成により作成したものです。

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